幼春 第九章「予期しない展開」
入社二年目の一九八〇年の春を迎えていた。研究所に入って二年目は、研究のやり方を学ぶテーマ企画と呼ばれるイベントのある年である。大学の卒論のように、テーマを与えられて、それについてどういう筋道で検討し、何をいつまでに明らかにするか、ということを自分で検討して資料にまとめるのだ。そして、六月にこの企画書を大きな講堂で発表し、みんなの意見を聞く発表会がある。僕は企画のためのテーマを設定し、検討に入った。コンピュータもワープロもほとんど初期のころで、全て手書きでやった。しかしながら、僕は二月の傷を引きずっていて、斜に構えたやる気のない落ちこぼれになりかけていた。指導者や研究室長がどう思っていたか、今から察するに余りあるが、そのときの僕には全てのことがどうでもよいような気持ちになっていたのだ。
その発表をひかえ、検討も佳境に入りそうな四月の終り、ゴールデンウィークの前半に、僕は金沢を訪ねることにした。五月の終りに同じ大学を出て同じように今の会社に入った同期が、結婚式を大阪で挙げることになっており、そのときに奈良に帰るつもりだったので、少し別のところへ行ってある意味で傷心を癒そうと思ったのだ。僕はがらんとして空いた白山五号に乗り込み金沢に向かった。研修医として金沢の医大に高校時代の友人のSが勤務していたので彼の家へ転がり込んだ。立派な一軒屋にSは住んでいた。そのSのところを基地にして僕は三日間、金沢の町をうろついた。Sは大変な迷惑であったろう。急にげっそりした顔で現われて、ほとんど事情も話さず、何が不満なのかぶすっとしたのが三日間も居候した訳だから。しまいには追い出されるようにして金沢を後にした。そういう金沢滞在の途中、僕は生懲りもなく、N子に絵ハガキを出した。兼六園のありきたりの絵ハガキの表半分につまらないことを書いた。
今、金沢でぼんやりしています。
あした帰ろうと思います。
何も変わりません。
何もわかりません。
IH
そして僕はまた日常に戻った。それなりという言い方がぴったりの生活だった。そんな五月のある日、遅く独身寮に帰ると僕の郵便受けに手紙が届いていた。差出人はN子だった。僕は疲れた身体を引きずるように五階の自室に入った。夕食も取っていなかったし、寮の食事時間はとうに終わっていたので、カップラーメンを食べることにした。僕は電気ポットに水を入れ、部屋の電気を消してからポットのスイッチを入れた。そのころの寮の一部屋の電力容量は六百ワットで、電気器具はほとんど同時に使えなかったのだ。特に湯沸かしは、ワット数の小さいものを選んで買ったのだが、それでも電気をつけたままではブレーカーがとんでしまうのだった。僕は湯が沸くまでの間、風呂に入った。深夜でボイラーは止まって湯が出ず、みんなが使った後の湯舟は湯の量が少なく汚れていた。そんな風呂をそそくさと使い、僕は部屋に戻った。湯は沸いていた。電気をつけて、サイモンとガーファンクルのレコードをヘッドホンで聞きながらラーメンに湯を注いだ。できあがるまでを待ちながら、僕は手紙を開いた。そこには、あの見覚えのある丸っぽいN子の字が並んでいた。
前略
絵はがきありがとう。
私は元気にしています。
この手紙は今の私の正直な気持ちです。
二月の奈良のこと、あれからずいぶん考えました。
ずっと考えていました。
あなたからの絵はがきをもらって私はあなたに今の私の気持ちを伝えねばならないと感じました。
私は本当にあなたのことをわかっていたのでしょうか。
何もわかろうとしていなかったのかもしれません。
あのとき、私はあなたの問い掛けに、
「考えられない、可能性はない」って答えましたね。
でも今、答えるとしたら、「自信がない」という返事になると思います。
私はあなたから向かってくる気持ちというものをあの時初めて感じた気がしました。
そうか、こんなにあなたは私のことを考えていてくれていたんだ、と。
あなたに今までと違う感じを持ったんです。
うまく言えませんが、良い意味であなたが違う人のように私には思えたんです。
なのに私はそれに対してあんな態度をとってしまった。
私はあの時に、あなたにとてもつらいことを言いながら、何かひっかかりを感じていました。
近鉄奈良駅であなたと別れるとき、階段に消えていくあなたの後ろ姿を見て、
追っていかなければ、今追わないと、あなたは本当に行ってしまうんではないか、と言う衝動に似た思いに駆られました。
でも追わなかった。それをずっと、あれ以来ずっと悔やみに似た気持ちで考えていました。それでこの手紙を書きました。
これが今私が言える精一杯です。
IH様
KN子
僕は読みながら、自分が異様に興奮しているのを感じた。独身寮の狭い四畳の部屋の中を転げ回って喜んだ。隣とはベニヤ板一枚の壁しかないので、ふとんを頭からかぶって大声で叫んだ。
「やった。やった。やった。N子が、N子が、こっちを見たよ。やった。やった。」
僕のそれまでの人生の中で比べる対象の無い至福の瞬間であった。うれしかった。最高に幸せだった。何度も頬をつねった、夢ではなかろうかと。夢ではなかった。あのN子が初めて僕にこの僕にポジティブなことを言ってくれた。恋いこがれて、胸張り裂けるような思いをを持ちながら、それが全くかなうことのなかったこの僕のN子への思いが今やっと形をなしてきたのだ。
でも、僕はこのとき本当の意味で彼女の気持ちを理解していなかった。彼女は僕が変わったように思えたと言った、その理由や、もっと言えば僕が変わっていなければダメなんだという彼女の暗号を。僕はとにかく喜び駆け回りたい気持ちで一杯になってしまって、冷静な分析や今後のあるべき姿なんか何も考えていなかった。N子が完全に自分のものになったと思い込んでいたのだ。
僕はさっそく電話をかけた。
「もしもし、Iです。」
「こんばんは。」
「手紙を読んだよ。びっくりした。そしてとてもうれしかった。ほんとにうれしかった。」
「あれは私の今の精一杯のあなたへの気持ちなの。あれ以上の伝え方がなかったの。」
「うん。わかった。でね、こんど友人の結婚式でそっちへ帰るんだよ。そのときにぜひ会いたいんだけど。」
「うん、私も。」
「じゃ、二十五日の朝十時に京都駅の中央改札口でどうかな。」
「わかったわ。」
一九八〇年五月二十三日に僕は新幹線の車中の人だった。僕は何度も京都に新幹線で向かったことがある。そのうちの何回かはN子と会うためでもあった。しかし、こんなにわくわくした気持ちで新幹線に乗ったのは本当に初めてだった。二月の帰京の時には窓に自分の半泣きの情けない顔が映っていたが、今は逆にしまりの無い顔をしていた。
大阪での友人の結婚式で、妙にハイになって訳のわからないスピーチをした次の日、僕は近鉄特急で京都に急いだ。
三寧坂、円山公園あたりをぐるぐる歩いた。河原町の喫茶店で話した。いきなりN子が口火を切った。
「私のことをどう思っていたの?」
「君は自分のことで精一杯のようだったと思う。『私は一体、私は』って考えて周囲のことを気にする余裕がなかったのかもしれない。」
「じゃ、あなたはそれを冷静にながめてたの?」
「冷静じゃないよ。こっちを向いてくれと思い続けていたさ。」
「私はね。こういう余裕のない私をね、助けて欲しかったのよ。こんな私を救ってくれる人が欲しかったのよ。」
「きっと僕には自信がなかったんだよ。君を守りたいと思っていたさ。でも、力のない僕が近寄ることで余計君を傷付けてしまいそうで。でも、きっとそれはとても卑怯なことだったんだね。」
「あなたは昔、遠くを見ているような私が好きだって言ったわね。でももし身近なあなたに目を向けだしたら魅力がなくなるんじゃないかしら。」
「うまく答えられないが、そういう君が近くを見出すってことがよっぽどすごいことなんだと思いたい。」
「こんなわがままで、自分のことばかり考えている、そんな私のどこがいいの? もし私が男だったら絶対いやだと思う。」
「僕は理屈なしに好きなんだ。」
「じゃね、これからはせめて私の前では堂々と自信を持ってね。実はね、二月に奈良で別れるときに後を追いたくなったのはね、固定観念を破ってあなたを見直そうと思って見たからなの。そしたら、私にはあなたが成長し、そして強くなったように思えたの。それでね。」
「それで?」
「うん、それでね、すこうし好きになったの、あなたのことが。」
「ありがとう。」
「前に、福永武彦の『愛の試み』の中の挿話で『盲点』を読めって言ったわね。読んだわ。あれって、何でもわかっている男性がそばにいるのに、その人のことは全く異性として意識しない女性のことだったわね。」
「そう、ほんとは彼女のことが好きでたまらない彼に、彼女は結婚の相談をしたり、離婚や再婚の相談をしたりね。男性の方は彼女が好きだから、いつも彼女のそばにいたのに。あげくに彼女の再婚前に彼女に好きだって告白したら、あなたは何でも私のことを知っているから結婚相手には絶対考えられない、って言われたやつね。」
「うん。彼女は全く相手の身になって考えようとしなかったでしょ。それじゃあんまりだと思って、ひょっとしたら私もそうなっているんじゃないかと思って、ようく考えてあの手紙を書いたの。あれは手紙を書いたときの本当に正直な気持ちだったの。」
「わかった。ありがとう。期待に沿えるように頑張りたいと思うよ。」
このとき初めて、僕はN子におごることができた。
「僕が払うよ。これが普通だろ。」
「ありがとう。じゃ、普通に従うわ。」
僕たちは京都駅で別れることにした。僕はN子に、
「握手してもいい?」と聞いた。
と、彼女は照れながらも素直に右手を出した。僕はその手をそっと握り、
「また電話するよ。今日はほんとにありがとう。」と言った。N子は、
「私も。」とだけ言った。
考えてみると、僕がN子に触れたのはこの十年の中で二回めだった。最初はなんかの拍子に手の大きさが話題になって大きさを比べたときだった。僕は、この握手のぬくもりをずっと大事にしたまま、帰京の新幹線に乗った。
帰りの新幹線の中で僕は考えた。窓に映る自分の顔は、なんとなく真面目な顔をしていた。本当に手の届くところにN子が来たということと、それでいてなお手放しで喜べない緊張感があること、加えて自分が彼女の期待に沿うべき自信のある人間とならねばならぬこと、傷付きやすい彼女をわかり、飲み込み、愛し、そして守っていくのは自分であること、などのいろんな気持ち、思いが錯綜していたのだ。
僕はN子のぬくもりが残っているような気がする自分の右手をながめながら、思った。
「結婚したい。」