幼春 第二章「接近」

三年生になって、クラブも引退していよいよ受験準備まっさかりだった。クラブの仲間 と会うことも少なくなっていた。そんなある日の放課後、僕は図書室でN子を見かけた。 思い切って声をかけた。
「Kさん。」
「あ、I君。久しぶりね。」
「どう、勉強はかどってる?」
「なかなか進まないの。ねえ、ところでI君は何になりたいの?」
「医者になって金もうけして親を楽させてやりたいんだ。でも、入試が難しいもんなあ。」
「へえ、えらいのね。」
「Kさんは?」
「わたし?そうね。小学校の先生かな。」
「じゃあ、教育大?」
「そう。」
「I君は医大ね。」
「そうなるね。でも、よくわかんないけど。」
「頑張ろうね。」
「ああ、お互いな。」
N子の口癖は頑張るだった。
僕は県立医大を受けようと思って猛烈な勉強をした。僕は医大をめざしていたにも関わらず、 実は理科系がにがてで、英語や国語が好きだった。しかし、男子たるもの文科などけしから んと言う親の言いなりで理科系を選択していたのだ。そういう日々の中で少し気になったこ とは、N子とTが一緒に歩いているところを何度か見かけたことであった。もうクラブ活動 もなく、僕がTと一緒に帰ることはほとんどなかったのである。N子はいつもと同じように 少しうつむき加減でTと並んで歩いていた。声をかけられる雰囲気ではなかった。しかし、 そういうこともだんだん埋没して忘れてしまうほど厳しい受験勉強の日々であった。

そして春が来て入試が終わった。医大をめざす筈の僕は、めあての県立医大の受験科目が僕 の選択科目と合わなかったり、進路指導教諭の勧めもあって工学部を選択し、結局大阪の大学の工学部通信工学科に受かった。この選択が将来の僕の東京行きの運命を決めてしま うことになったのだが。N子は、僕より遅れて国立二期校の奈良の教育大に合格した。彼女 は自分の希望をつらぬいて進路を決めたことになった。
合格が決まったころ、後輩達がクラブのOB会を開いた。僕たちは一番若いOBとして参加 した。N子を見かけると僕は声をかけた。
「Kさん、合格おめでとう。頑張ったね。」
「ああ、I君もおめでとう。すごいね。T君は市大に通ったそうね。ふたりともすごいわ。」
「そうだってね。」
彼女は目でTを追っていた。僕はN子と一緒にTの方を見ながら複雑な思いであった。
Tが寄ってきた。
「おお、I。やったな。」
「おまえこそ。」
「合格してしばらく暇だろ。M江やR子や、そうだ、K子も誘って大阪にでも遊びに行かないか。」
「そりゃいいな。Kさんも行こうよ。」と僕は言った。
N子は僕のそのことばを受けて即座に、でもTの方を向いて、「うん、今ね、ちょうどいい展覧会 を難波でやってるのよ。よかったら行かない。」と答えた。
「よし、決まりだ。ほかのみんなには僕が言っておくよ。」と僕はTとN子をふたりにしてその場を去った。
次の日曜日、西大寺駅に僕たちは集合し、近鉄急行で大阪に向かった。僕たちはみんなそれぞれの進学先に決まった安堵感でとても楽しい一日をすごした。R子は福祉関係の短大に、K子は西宮にある私立大の英文科、M江は大阪府立の女子大の教職関係、Tは大阪の市大の経済学部に決まっていた。高校を卒業したとたん、女の子達はうっすら化粧をしていた。当たり前のことなのに、僕はけっこう見直していた。しかし、N子は高校のときと相変らずの化粧気のない素顔だった。僕はずっとK子やR子と話していた。TはN子と並んで歩いていたが、ふたりとも静かだった。僕はそんなふたりを横目で見るだけだった。
夕方、みんなそれぞれに家路に着いた。偶然か、西大寺駅には僕とN子とTが残った。僕はなんとなく居づらい思いで、別れを言って去った。見かけ上なんということはなかったが、妙に気になる別れであった。僕にはなぜか、N子が大阪で買ったトルソのポスタが強く印象に残っていた。
それだけのことだったが、帰りの電車の中で、僕は前にTと話したことを急に思い出した。気持ちをどのように人に、特に女性に伝えるかってことだった。
「いいか、I。自分の気持ちにウソをついてまで人にやさしくするのは、結局その人にとっては失礼なんだぞ。はっきりするときははっきりすべきなんだ。まあ、おまえにはできないだろうな。訳のわからん『やさしさ』とかで、べたべたやるんだろうおまえにはな。」
「違うよ、それは。むやみにただベタベタすればいいって言ってるんじゃないよ。同じケガをするのでも、少しでもケガが小さくなるようにできるのなら、そのほうがいいじゃないか。何も知らん顔はひどいと思うな。目を見りゃわかるとか、態度でわかるってのは、不親切なんだよ。丁寧に説明すべきだよ。」
「ばかだな。そんなことしてたら、余計相手が傷つくだろうが。」
「いや、そうは思わない。案外人はちょっとした仕草や態度の中に『希望』や『絶望』を見てしまうんだよ。だから、ちゃんと説明すべきだよ。」
「おいおい、おまえはひょっとしてとてもひどい奴じゃないか。傷口に塩を塗込むようなことをしろって言うんだな。好きです、こうだから好きです。嫌いです、こんな理由で嫌いですって言えって言ってるんだぜ、おまえは。それこそひどいぞ。」
「そうかなあ。とにかく、少しでも関わった相手ならそんな突き放すようなことは俺にはできないな。」
「まったく、もう。それでは体がいくつあってももたないぜ。」

僕は、K市から大学の教養部のある大阪のT市まで、自転車、近鉄、環状線、そして阪急と乗り継ぎ二時間かけて通った。僕はさっそくマンドリンクラブの戸を叩いた。でも、そこには、僕のイメージのあのマンドリンクラブは全然なかった。男はマージャンに明け暮れ、やはり女性も僕には冷たかった。それに何より技術レベルが低くだんだんイヤになってしまった。通学時間がかかることも一つの原因ではあった。そんな5月のある日、僕は思い切ってN子に電話をした。
「もしもし、どう大学。楽しくやってる? 」
「楽しいかどうかはわかんないけど、なんとかやってるわ。」
「そうか、僕はダメだな。なんかつまんなくて。」
「そう、それはいけないわね。」
「迷惑でなかったら少し話したいんだけど。もし、時間がとれるんだったら、今度の日曜日に奈良公園にでも行かない?」
「そうね。」と言って少し間があって、
「いいわよ。」とN子は言った。
 次の日曜日、僕たちは五月の少し暑い奈良公園を散歩していた。
「新しい環境ではね、いろいろ大変よね、お互い。」
「そうだね。つい過ぎた高校時代のことを考えたりしてしまうよ。進路はこれでよかったのかなとか、クラブの楽しかった日々なんかをね。」
「そう、私はもうあんまり過ぎたことは考えないのよ。」
「でもね、私はこばみはしないのよ、もし向こうから来たら。」
「え?」
「わかりやすく言えば今日のI君。高校時代の友達だけど、今私と話しているのは今のI君でしょ、思い出の中の人じゃないものね、ここにいるんだもの。」
「それは光栄です。」
「一般論よ。言っておくけど。」
「了解。」
ふたりは、奈良公園を散歩し、博物館の横を通り、一の鳥居を抜けて興福寺の五重の塔を見上げながら三条通りに降りた。そして、餅居殿通りを入ったところにある白門館という喫茶店に入った。
「こんなにちゃんと奈良公園を散歩したのは初めてだわ。疲れたけど楽しかった。」
「そうだね。奈良に住んでいても知らないところが多いね。」
「そうよね。いろいろ知らなければね。」
「今日はありがとう。君と会えて話して胸のつかえがとれたような気がするよ。」
「それはよかったわ。会ってたわいのない話しができる友達ってなかなかいないものよね。私も楽しかったわ。」
僕はN子に気持ちが傾いている自分をしっかりと実感した。

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